2021年5月6日木曜日

行徳の歴史

行徳の歴史

 江戸川のデルタ地帯

 5000年程前、東京湾が隆起しはじめ、海が後退し、下総台地の東京湾に面した一帯に土砂が堆積し、砂洲や砂丘ができた。「行徳」は江戸川に運ばれた土砂によって形成されたデルタ地帯である。
 「手ぐりぷね」という本(文化十年南行徳の住職鈴木金是著)には、「了前寺で井戸を作るため地中深く掘っていると石の棺がでてきて、その中には剣や鏡が入っていた」という、行徳の古墳についての記述がある。これが事実とすれば、約1000年以前に、この地にかなりの富を得ていた豪族がいたことになる。 戦国時代、房総においては千葉氏にかわって安房の里見氏が成長し、国府台で北条氏と二度にわたって戦った。この戦で里見方が敗れ、行徳に置かれた国府津も含め、下総国は廃虚と化し、その後小田原落城まで塩を年貢として納めつつ、北条氏の支配をうけた。
 徳川家康が北条氏なきあとの関東の新しい領主となり、同時に江戸時代における行徳の発展が始まる。


Ⅱ 東国第一の「行徳塩業」
        
         
「行徳鵆(ちどり)」(長谷川雪旦・画『江戸名所図会』)

 行徳はすでに戦国時代において江戸湾岸における最大の塩の産地になっていたが、これが更に発展して東国第一の「行徳塩業」としての特色を発揮するようになったのは、徳川家康が行徳を幕府直属の天領とし、「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」といって、塩業を保護、奨励したためである。寛永九年(1632)に塩を運ぶための水路、小名木川、新川が整備され、途中江戸川、中川、隅田川を通り江戸城内と本行徳は、直接船で結はれることになった。
 本行徳村は、この航路の独占権を得て、船着場が作られ、「行徳船」「長渡船」が就航するようになり、塩だけでなく、人や物資の運搬も盛んになった。行徳船を利用した著名人も多く、芭蕉、十返舎一九、一茶、渡辺華山、大原幽学などの記録がある。また、文化・文政のころからは、江戸で成田山詣でが流行し、行徳は船場、宿場として活況を呈した。日本橋小網町と下総行徳村を結んだこの船便は、明治に入ると蒸気船が登場し、水上交通は新しい時代を迎えた。
 当時を偲ぷものとして、かつての船着場付近に常夜灯が残っている。


Ⅲ 埋立てと東西線・京葉線
         
外輪蒸気船「通運丸」


 行徳は江戸の勝手口として繁栄し、俗に「行徳千軒、寺百軒」といわれるほどに発展した。
 明治に入り、通運丸といった外輪船が往復するようになったり、水運が盛んだったが、総武線の当地経由に反対し、同線が内陸部を走るようになるとともに、水運も衰え、近代的交通路から取り残され、「陸の孤島」となって行徳の町はさびれる一方となった。しかも大正六年の大津波で、塩田が消滅、水田と蓮田、冬にはのりほし場のならぶ静かな村になった。
 昭和30年に行徳町が、31年に南行徳町が市川市に合併し、34年からは公有水面の埋め立て事業がスタートした。山本周五郎の「青べか物語」の舞台にもなったこの地域は、浦安から行徳にかけて広大な湿地とよく発達した干潟がひろがり、雁や鴨、鷺、千鳥等の群れが空を暗くするほど見られた。日本で記録された鳥類約520種のうち260種以上が記録される国際的にも有名な鳥類生息地でもあった。埋立て事業がスタートして10年程で広大な埋立地は臨海工業地帯となり、更に昭和44年の地下鉄東西線の開通は、田園地域の様想を一変させた。かつての行徳の姿は野鳥観察舎付近の「行徳近郊緑地特別保全地区」に見られるばかりで、マソショソ、アパートのひしめく一大住宅地となつた。新たな行徳の誕生であった。昭和63年12月にJR京葉線が開通し、塩浜駅が開業した。
 平成12年には東西線に妙典駅が開業し、この寺町通りは都心から30分未満の近さになった。
 日本橋と直通の「船便」(蒸気船「通運丸」は大正8年(1919)に廃止、小型定期船も昭和19年に廃止)があった頃と町の様子は変わったというものの都心に直結した街としてその歴史を残しながら発展している。

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